潜在意識があらかじめ用意している場がある
今回の公演シリーズでの“奇跡”や、セミナーでの“元気”について自己観察したところ、
その両方に一致している点は、その“場”が、
人々が集まるところ。
浄化される波動の高いところ。
どちらも準備せずに、進行する。
私はその場(モード)に入ることで、その場に降りてくる(すでにある)高い波動のエネルギーとひとつになっています。それはすでに私の潜在意識が知っています。
この高い波動の元では、エゴは最小限になっています。
すなわち、ペインボディが静止し、心身共にすこぶる元気です。
エゴについて、エックハルトトールは、「私たちは時として、エゴのことを実体のあるものであるかのように捉えますが、エゴというのは単に「無意識」の表れです。それが時々実体あるものであるかのように思われるのです」と表現しています。
意識的にその場にいますと、
その場の全体のエネルギーを感じることが瞬時にできます。
セミナーでは、それにより一人ひとりに必要なアプローチができ、
舞台では、高い波動のエネルギー(振動とも言う)とひとつになり、舞の動きの力となります。
それを観る側には、見届けることでそのエネルギーと共鳴していると思います。
どうもこんな感じの現象が、毎回起きているように思います。
この「潜在意識があらかじめ用意している」のは、時空を超えているため、時間の流れでは理解不能な現象なのだと思います。
何故、日常に戻ると、じわじわ元に戻るか、これによりいくらか解明したと思います。何故なら、その体験を、ヴィパッサナー瞑想コース後に、いわゆる“下界”に降りて、日常に戻っていくと、だんだん頭が痛くなったり、周囲の過度な刺激がきつく感じる、そのプロセスが、舞台後、またはセミナーを教えた後の感じと似ているのです。
以前、宇宙ロケットが地球に帰還する際の軌道調整を行った科学者が発明したという波動器で、DUOワークセミナー中に私の波動エネルギーを測ってもらったことがあります。
その時の生命エネルギーが120で、最高の100を超えたのを見たことがないと言われました。
セミナー中のすこぶる元気のいい、疲れを知らないどころか、泉のように湧き出てくるエネルギーをいつも感じています。
だとすると、この私の“潜在意識”が何であるのか?
要するに、逆を見ればいい。
逆とは、日常の私のありようです。
日常の私は、料理や家事を好んで自分自身のペースでゆっくり気ままに動いています。
これといって特別なことはせずにいますが、元気の素がない感じ。
日常の私には、エゴが大幅に占めているかのようです。そのためペインボディが活動しているのかもしれません。
それが、ヴィパッサナー瞑想をし始めてから、寝込まなくなっているので、日々の暮らしで瞑想を取り入れたことで、浄化され、波動の高さがいくらか保たれているのだと思われます。
例えば、パチンコ屋の前を通るとき、居酒屋の並ぶ界隈にいるとき、愕然と波動は落ちる感じがします。
そういう低い波動の中にあっても、自分自身の波動の高まりが維持できるほどになれれば大したものなのでしょう。
お釈迦さまを、泥の中に咲く蓮の花に見立てているけれども、それほどにも浄化され解脱するとすべてに影響を受けないのでしょう。
という訳で、私はまだまだ全然だ、ということがわかった次第です。
“潜在意識があらかじめ用意している場”
これは、その人それぞれの本来の目的の場であるのかもしれないですね。
誰にも備わっている、その方の才能が生きる場と言えるでしょうか?
この落差ゆえに、私はいったんリセットしたいと思っていましたが、それよりも、日常でバランスを取れるようになることが肝要ではないかと思い、
まずは日々の瞑想と、意識的に生きることだと思うようになっています。
ここで、エックハルト トールの伝えていることがますます理解した感じがしていますが、どうでしょう。
どんな“瞬間”も“今”である。
“今ここ”しかない。過去も未来も、“今ここ”であるということです。
日常であろうと、非日常であろうと、大いなる意識は、“今ここ”であるのです。
非日常では、それが如実になっている場であり、
舞台やセミナーでエネルギーが高まるのは、“今ここ”のパワーとひとつになっているからではないでしょうか?
“潜在意識”すなわち“私”(大いなる意識とつながっている)は、それ(踊りの振り付けやセミナーの内容)を外側では準備していなくても、その“瞬間”に意識があるので、“今ここ”のパワーがその場に顕れ、表現されるのです。
そして同様に、瞑想においても、“今ここ”にあります。
思考が入ると“今ここ”にはいないことになります。
思考は動きであり、形になるので、エゴの力になります。うつろいゆくものです。
エゴが入らないのは、感覚とひとつになっている“今ここ”の“瞬間”ですから、“無”である意識の“気づき”とひとつであるのです。
私は、セミナー(セッション)では、微動だにせずに、耳と身体を澄ませています。
その人の真のところのエネルギーが感じられるのは、動かないのです。
その人の声の奥、言葉の奥の真なるところを感じようと全身を耳にして聴いています。
舞台では、音楽もそうですが、音が鳴る以前の空間、音が響く以前の瞬間に意識がひとつになっているように思います。
その意識は、大いなる意識ともつながり、見えない存在たちや死者たちともつながっている生命界という表現になるかと思います。
そのエネルギーとつながるのですね。
ここまで解明されますと、どんな瞬間も、特別に何かをせずとも、そのエネルギーとひとつになれるように思います。
これは素晴らしいことですね。
生きることが、どうやら楽しい感じになるような心持ちがいたします。
それが“悟り”の入り口であるように思うのは生半可かもしれませんが、この“発見”は今の私には大きいのです。
いくらかの謎が解けた感じがしています。
覚え書きとしてブログします。
ちなみに私の振動数は55。
5/5にこれが書けたことが子どもみたいですが、嬉しいです。
愛と慈しみをこめて