行為への愛
R.シュタイナーの『自由の哲学』より
「私は主人の命に服するから行動するのではない。
外的権威やいわゆる内なる声に従って行動するのでもない。
私は自分の行動の外的原則を必要としない。
なぜなら、私自身の内部に行動の根拠を、行為への愛を見出したのだから。
私の行為が良いか悪いか悟性的な手段で調べようとも思わない。
私が行動するのは、それを愛しているからである。」
「行為への愛において生きること、
他人の意志を理解しつつ生かすこと、
これが自由な人間の基本命題である」
「どんな瞬間にも自分自身に従える人間だけが自由なのである」
仕事を愛する行為において行っていますと、そこの波動が高まります。
八百屋さんが、その仕事を愛していますと、そこで売られている野菜の波動が高まります。
韓国のチェジュ島には、市場がどこの街にも開かれています。何でもあります。
新鮮な野菜、果物、魚、肉、衣類、雑貨、菓子屋、米屋、洋服、漢方薬、鍋釜、などなど。
同じものを売るのでも、その仕事を楽しんでいる人のところに目がいきます。
そして、そこで買うと、買って良かったと思えます。
喜びと感謝が生まれます。
自分が愛していない、嫌だ嫌だと思いながら我慢し続けますと、自分自身の身体も不調を起こし、周囲との不調を起こします。
愛する行為として、その仕事を行うことができているでしょうか?
愛する行為として、料理しているでしょうか?
愛するゆえに、行為を通して愛を与えているでしょうか?そして、その行為そのものを自分は愛しているでしょうか?
自分を愛すると同時に、行為への愛が一致しているでしょうか?
無条件の愛の状態でいられると、愛の波動をクリエイトしています。
ここでも私たちは、幼い子供たちのありように学ぶことができます。
無心になり、愛の状態で行為することを。
愛と光と感謝をこめて