石井薫氏の文章を読んで
『クリシュナムルティ瞑想録』感想記を書いた、石井薫氏の文章1・2 ・3に出会いました。
このような方がいることを知り得たこと、とても感謝しています。
レインボーDUOワークの次なるステップが、究極の一元論として、「真の自由」「真の愛」になることであることです。
ある意味、DUOワークを必要としない“悟り”です。しかし、生涯を終えるまでこれに至るかどうか、、
人生が絶望のどん底にあったある時期に、この意識を体験しました。
エゴの浄化が炎のように起きたのです。
しかし、その後の人生は再びエゴと共存し心の汚濁にまみれてしまいました。
エックハルト トールやクリシュナムルティの発言する“いまここに生きる”の深淵な世界を、
一人ひとりの意識が覚醒する重要性を認識しています。
インナーチャイルドワークと同時に、“いまここに生きる”静けさを持つことを意識的に行います。
意識している自分に気づく、その“気づき”そのものです。
“思考する”ことにより、エゴの影響を受け、いまここを生きないでいるので、考えないで静けさのスペースに意識を置くのだと思います。
日々の生活で行います。
それはパワーであることを知ります。存在のパワーであることです。
そのパワーを生涯すり抜けているようなものであることを知ります。
そのパワーは、存在全体、生命全体とつながっているパワーです。
「生きているだけで、限りない価値がある」というのは、誰一人欠けても全体が欠けるからです。
ひとりの悲しみは全体の悲しみでもあるからです。
氏の文章に共感し、納得し、感謝しています。
これから数十年は費やすであろう道のりの“友”として歩むでしょう。
以下、石井薫氏の引用から転載いたします。
「死は生と共にあるのですから、それと共に生きて、毎 日生きるように毎日死ぬことです。あらゆる悲惨を、あらゆる快楽を死んでやり過ご すのです。一つを心の奥底にしまい込んだままにしないで、あらゆるものを死んでや り過ごすのです。記憶を、若さを、神々を、救済者たちを、家族をも、死んでやり過 ごすのです。あらゆるものに対して傍観者になることです。知っているあらゆるもの を、明日にではなく、今日死んでやり過ごすのです。そうすると、死の影である恐怖 がなくなり、生と死が別物でないことが分かるでしょう。終わりが始まりなのです。 そうすると精神は時間を超えています。恐怖は時間であり、思考が恐怖を生み出しま す。経験や、記憶や、新旧の伝統などの過去の死によって精神が新しくなり、未知な もの、計り知れないものが現れます」(クリシュナムルティ, 2010A, 383~384 頁)。
「それは、自分の活力、エネルギー、知力、深い感情のすべてと共に生きながら、 同時に一定の結論、性癖、経験、執着、傷を終わらせるという意味で死ぬことです。 すなわち、生きながら、死と共に生きるのです。そのときには、死はずっと先にある 何か、なんらかの事故、病気あるいは老年によって自分の人生の最後にもたらされる 何かではなく、記憶のすべてのものごとを終わらせることなのです。すなわち、生き ることから離れてあるものではない― 生と一体の― 死です」(クリシュナムルテ ィ, 2010B, 203~204 頁)。
愛と光と感謝をこめて