あるがままの奥深さ
誰もが、変わりたい、と言います。
自分が変わると、周囲が変わると思っている方もいます。
自分が変わると、楽に生きられると思っている方もいます。
他者を変えることはできないけれども、自分を変えることはできるとも言います。
もちろん、そのようになります。
しかし、
変えさせられた自分になっていたとしたら、どうでしょうか?
人は、あるがままの自分を受け止めてもらえないと、知らず知らずに自分を変えてしまいます。
そうすることで、周囲との調和が取れ、生きやすいと、心のどこかで思い込んだのかもしれません。
幼児のけなげな姿を見てください。
大人になった私たちも、あの子たちのようでした。
人前で何もしゃべれなくても、言われたことが直ぐに理解できなくても、
みんなと同じようにできなくても、食べるのが遅くても、好き嫌いがあっても、黒板の文字が読めなくても、かけっこが遅くても、朝早く起きれなくても、にこって笑えなくても、歌が歌えなくても、
そのままでいいよ。
ひとりひとり、皆違うのです。
もしかしたら、何も喋らないことで、別な回路が働いていることもあるでしょう。
その子の、個性を認めて、あるがままを受け止めてあげたら、
その子はそのままで、本来の自分であるのです。
大人の目で、ネガティヴな側面として、その子を見たら、その目によって、それがネガティヴだと思わされ、自分自身を受け止められずになってしまうのではないでしょうか?
生まれる前に決めてきた自分のありようは、両親を選んできていますから、完璧と思って生まれています。
しかし、生まれてくると、周囲の価値観で、変えさせられるようになったら、どうでしょうか?
大人になった自分が、自分を変えたいと望むとき、
変える、という観点ではなく、
自分がネガティヴだと思っていた側面を、あるがままの自分という観点で観ますと、
それは大事な自分本来の個性であることに気づくかもしれません。
そして、その個性を愛おしく感じますと、
その個性により、やりたかったことが、思い出されるかもしれません。
ナデシコの花は、すでにナデシコの種として生まれ、薔薇の花にはなりません。
自分を変えようとすればするほど、しんどくなるでしょう。
玉ねぎの皮が剥かれるように変容するあり方は、
成長のプロセスでの、周囲の価値観や縛りを解く作業に他なりません。
すでに完璧な種として生まれた、その個性に必要なのは、
そのままで完璧な存在です、と畏敬をこめて、無償の愛を注ぐこと。
その子が、求めることを、丸ごと受け止めてあげること。
幼児が求めるものは、
抱っこして、お腹すいた、自分を見て、優しくさすって、言葉がけして、など、とてもシンプルです。それで十分に満たされるのです。
それらが十分に満たされないと、愛着障害となり、生きていく上で困難になります。
あるがままの自分を受け止めてあげることと、満たされなかった体験を、新たな体験として、レインボーDUOワークで取り入れています。
これらのことを心に留めていますと、
日々の暮らしの瞬間に、ふと気づくことがあります。
そしてその気づきは、とても大きな気づきにもなるのです。
愛と光と感謝をこめて