narikimの日記

http://rainbowduowork.hatenablog.com 日記バージョン

ひろみさん

1985年5月 笠井叡 オイリュトミー講座が、東京 中野でスタートしました。

スタートする一週間前に、初めて「オイリュトミー」なるものをこの目で観たのが、

六本木にある「俳優座劇場」での、『笠井叡 オイリュトミー公演』でした。

そこで配られた小さな紙のチラシに、講座の案内があり、観覧後直ぐに申し込みました。笠井先生が6年間の渡独から戻られたばかりでした。

講座という場に遭遇したのも生まれて初めてでした。最初、車座になって、一人ひとり自己紹介から始まりました。後になって、この〈自己紹介〉こそは、人智学の核心となる《逆儀式》だと認識し、その後、私のセミナーでもこれを生かしているものです。

初々しい出会いの瞬間は、とても荘厳で神聖な空間であったと、思い出すとその時の空気感が今も新鮮に蘇ります。

その時に車座になったメンバーの何人かはその後もオイリュトミーを通してずっと親しいつながりとなる人々でした。

その中でも、最も今で言う“オーラ”が輝いていたのが、谷合ひろみさんです。

縮毛の長い髪がふさふさして、まるで御伽の国から出てきたかのように、天使のような妖精のような雰囲気でした。華奢で、繊細で、にっこり笑みが溢れるように、存在そのものが光っていました。

ひろみさんがオイリュトミーで動くと、すでに四大存在が共感しているようでした。柔らかでとても美しい動きでした。

私たちは、午前中の稽古を終えるとランチをしいつまでもお話しました。

週に1日だけでは物足りなくて、毎日でもオイリュトミーしたい心持ちでした。

ですので、次第に週に3日間通うようになりました。

笠井叡先生も、中野の「テルプシコール」での講座の後は決まってランチを一緒にしました。中野の丸井の上にあるレストラン街でした。

今、私が中野に住んでいるのがとても不思議な感じがします。

その他の講座は、先生のご自宅のお庭に建てられた「天使館」でした。12坪ほどの小さな稽古場でしたが、空間に入ると何とも言えない異次元空間に変わりました。

真っ赤なベルベット生地を天井から空間全体に垂らして、背丈よりも高い位置に小さな小洒落た小窓から光が差し込んでいました。

祭壇のように、黒板横には、ラファエルの《聖母子像》の複製画が掲げられ、燭台が置かれていました。

檜の床は、たくさんの稽古の痕が沁みこまれてました。床に五芒星形が描かれてました。私たちは、狭いながらも濃密な稽古と学びの時間を生きました。

時折、笠井先生は、私たちを山歩きに連れて行ってくださいました。「オイリュトミーは、季節を衣のようにまとうのです」それを実践してくださっていたのだと思います。何とも贅沢な日々でした。

ある冬のクリスマスには、先生のお母様の別荘で過ごさせていただきました。私は3歳の娘を、先生は9歳の末の息子さんを連れて行きました。30年が過ぎました。

そうして、私たちはオイリュトミー以外にもたくさんの“愛と祝福”の恵みをいただき、舞台にまで出させていただけるようにしていただいたのです。

まだ「オイリュトミーシューレ天使館」が生まれる以前のことです。

ひろみさんは、とても優しく穏やかで、きちんとしてました。天使館の舞台活動にも献身的に尽くされてましたが、オイリュトミーを本格的に習得実践するために、独りでドイツのシュトュットガルトオイリュトメウムに留学しました。

先生は、愛弟子を送るように、みんなで送別会をしました。「すぐ帰ってきてね」と呟かれたような感じがしました。

私とひろみさんは背丈が同じくらいでしたので、コンビになってオイリュトミーすることが多かったので、片翼が行ってしまうような寂しさがありました。

その後間も無く、先生は自ら、オイリュトミーの学校を創立されたのです。一期生が卒業後、ひろみさんは卒業されオイリュトミストとなり戻られました。

シューレの二期生を教える先生になり、日本での本格的なオイリュトミー活動が始まりました。

先生になり、私はひろみさんに教わる生徒として普段は接していましたが、シューレの修学旅行では、生徒たちの部屋でなく、ちゃっかりひろみさんのお部屋で過ごしました。

ひろみさんは、寝る前も、朝起きた後も、いつも瞑想していました。清らかで美しい佇まいが日常でした。

オイリュトミー初期からの仲の良い私たち3人で、熊野に旅行しました。那智の滝を観た時、すごく感動しました。滝の流れのありようが、オイリュトミーだ、と感じられ、いつまでもじっと見つめていました。

熊野古道を3人で歩きながら、桜の木の下でしばらく佇んで話し込みました。

きっと記憶力がよければ、あのときの会話を再現できるのだろうけれども、たくさんお話して記憶に残っているのはひとつのことです。

「さくらは、宇宙の生まれる初めの音と言われているス音である“さ”は、神々のことよね」「そうね、神々のいのちが宿る“くら”なのね」

「だから、桜の木の下でお花見するのね。みんな無意識に識っているのね」

「だって、こんなにも美しいもの、誰だって吸い寄せられるようよ」

「それにしても、熊野の桜は、また格別な感じがするわ」

「うん、私もそんな感じがする」

「今度は、桜が満開になるのを観たいね」

「ねぇ、また来ましょうよ」

「うん」

その後、ひろみさんは、言葉のオイリュトミーの授業に、熊野の役行者の詩を取り入れました。さすがは、ひろみさん、と思いました。

こうして私たちは、たまに会うと長い長い深い深いおしゃべりが続くのでした。

その後、二期生を卒業する頃、このまま残って卒業生による舞台研究グループに入るか迷っていると、ひろみさんに呼ばれて国分寺のとあるカフェで諭されたのです。

「なりちゃん、どうしたいの?」

「私はこのまま続けて学びたい」

「いつまでも学ぶの?」

そうして質問されるうちに、私は独立することに切り替えたのでした。

長く通い続けた天使館を終えるのはとても辛いことでした。

いろんなことが重なり、最終的にはひろみさんとの対話で向かう方向が変わりました。親友であり、先生だったのですね。

とうとうそれ以来、私は天使館に戻ることなく独自の舞台活動を始めることになりました。

紆余曲折しながらも、昨夜の公演に至ったのは、もしかしたら、このことがなければ起き得なかったかもしれないですね。

昨夜の奇跡的な舞台から一夜明けた今日、ハルから、ひろみさんの訃報を知りました。

昨日、舞台直前に、この句を無音でやりたくなり本番でオイリュトミーしました。

花に染む 心のいかで 残りけむ 捨て果ててきと 思ふ 我が身に》

西行の句です。〈この世への執着を捨ててきたと思っていたのに、あぁそれにしても、この桜の花に心は惹かれるなぁ〉

「ひろみさん、ずっと腎臓透析してしんどかったね。舞台がやりたいって言ってたね。

きっと二人でやろうね。そう言ってまだやってないよね。

やろうね。」

ひろみさんがドイツに行ってから、とうとう二人の舞台が実現することなく逝ってしまいました。

「昨日の舞台は、もしかしたら、ひろみさんと一緒に舞ったのかな。だからあんなに力が溢れ、妖精のようだったって、観る人に言われる舞だったんだね」

実は私は、26日から28日本番直前まで熱中症で寝込んでいました。

奇跡的というのは、にもかかわらず、「できた」からです。

「ひろみさん、ありがとう。肉体の苦しみから解き放たれて、自由に舞ってください。天の羽衣は、愛と光で織り成されているね。

ひろみさんのお心の美しさは、此の世で出会った人々の魂とひとつになりました。

ありがとう、ありがとう、ありがとう。愛と感謝と祝福を送ります。心よりご冥福をお祈りします」

なり