narikimの日記

http://rainbowduowork.hatenablog.com 日記バージョン

清(きよし)さんの思い出 ①

私が二十歳で清さんは43歳でした。親子ほどの離れた年齢差はありましたが、二人とも初婚同士でしたので、おままごとのような結婚生活でした。

いつもどこにいても「清さん、清さん」と呼んでました。

清さんは、料理が上手でした。日本料理の腕前はピカイチで誰も真似のできない味を出してました。特に、白菜の漬物、糠漬け、おでん。

私は在日韓国人で、母はキムチを漬けてましたが、日本の漬物に不思議な驚きがありました。キムチのように赤くなく、白菜の自然な色合いが漬物になっても残っており美しいと感じました。

清さんのお母様が北海道函館出身でしたので、毎年のように昆布がどっさり送られてました。それが、大きな茶箱にぎっしりと保存されてました。ご近所付き合いのいい清さんは、何かあるとその昆布をお裾分けしてました。

私は何故、こんな黒い乾いたものを皆さんがたいそう重宝がるのか不思議でした。後になって、大変高価な質のいい昆布だとわかり、昆布は日本料理に欠かせないのだと知りました。

清さんは、その上質の昆布を惜しげも無く使います。白菜漬けには、昆布と鮭の頭を丁寧に開いて入れてました。それから赤い唐辛子を丸のまま。絶妙な味わいが今も忘れません。

ぬか漬けには、大きな釘が入ってました。いつでも夏野菜が仕込まれてました。木の樽のぬか床を毎日かき回す手が、美味しい手に見えました。男の人なのに、手だけ見ると、どこかおふくろさんの手のようでした。

おでんは、二人だけなのに、いつも大鍋でたくさん作りました。昆布を柔らかくして結んで入れてました。中でも大根の円切りや丸のままのゆで卵が、そのおでんのお出汁で十二分に染み込んでいて格別なお味でした。その大鍋にこさえたおでんを清さんは、わざわざ自転車であちこちに配りに行くのでした。

当時、大森西の都営アパートに住んでました。そこから田園調布の私の友達の家まで自転車で届けたのを覚えています。

後で友達が、「あんな美味しいおでんは初めて食べた」と喜んで電話くれました。

その他にも、筍やコゴメや季節の旬が毎日の食卓を賑わすのでした。

それから、何よりも大事にしていたのが、骨董でした。清さんは当時としては珍しく早期に公務員を退職しましたので、たくさんの退職金が入りました。そのほとんどを、書画骨董につぎ込んだのでした。

まさか結婚することになると思わなかったので、書画骨董三昧の自分の趣味に囲まれて暮らす夢を果たしていたのです。

またしても私には初体験の世界でした。日本の古い掛軸がそこいらに何本も転がっていたり、柿右衛門の湯飲みだか忘れたけど、九谷焼備前焼、李朝の徳利やら、岩田久利のガラスなどなどが、ぎっしり箪笥に入ってました。それだけでなく、現代絵画にも関心があって、私の知らない、しかし有名な作家の絵があちこちにありました。

それら一品一品について講釈してましたが、あまり関心がなく聞き流してました。

当時、抽象画家だった私は、具象画に興味がありませんでしたし、有名だからと云って興味を楚々られるものではなかったようです。

しかし器は好きでした。その一つひとつを日々の食卓でふんだんに使ってました。でもお気に入りがいくつかあって、それらが清さんの風情としっくりぴったりしているなぁと何気なく感じてました。江戸時代の徳利に、何気なく描かれた筆書きの絵や書を見る瞬間、なんとも言えないのびのびした自由な開放感を私自身覚えていました。

3歳までしか、お父さんと暮らしていない娘が、この風情を覚えているかわかりませんが、娘が幼い時から大人になるまで、ハッとさせられる場面と関係あるかもしれない。

一言で言うと、何を選ぶのも、創るのも、見るのも、「センスがある」のでした。

その感性は、親心にも尊敬するものでした。

もしかしたら、3歳までの暮らしで、本物と呼ばれる芸術品に囲まれていたこと、お父さんの造る本物思考の真心こもった料理の味覚や気、それらを自ずと体全体で感じ取って育っていたのだろうと思います。

第二の人生を自由気ままに暮らす清さんの日々のありようの一コマ一コマが、思い出され綴ってみたいと思うようになりました。