ご感想ーオイリュトミー公演
友達の金南里さんのオイリュトミーの舞とチェンバロの演奏の共演に居合わせてきました。
チェンバロを演奏する武久源造さんの目が見えないことを私は知らなかった。
真っ暗な舞台に出てきてチェンバロにぶつかる。
目が見えたとしてもあのほとんど完全な暗闇ではぶつかっただろう。
見えるとはなんなのか。
チェンバロにぶつかったあと、武久さんはチェンバロのラインに沿ってあっと言う間に鍵盤の前、椅子の前に立った。
楽器を演奏する人が、楽器に触れた瞬間道を見つけて自分の居場所に立つことの、なんと美しいことか。
はじまる。
音が空から降ってくるようだった。
特に、チェンバロという楽器の音は、天国から音が降るようだと思う。
生と死がある音楽だった。
天国のこと、生と死のことを考えていたら、父を思い出した。
私は彼にはもう会えない。
今や彼がすべてに宿り常に私といる。
だからこそあのときの彼はここには還らない。
還るとは絶えざる変化である。
目の先一メートルを彼女が動く。
風が発生する。
狭い室内に生命が出現する。
何もない床が草の生えた大地に変わる。
伸びる。
命が生まれ
育ち
死ぬ。
生成。
動きは物質ではない。
音は物質ではなく彼女の動きも物質ではない。
彼女の身体は身体ではないものを表現している。
人間や世界に絶望していた子供の頃を思い出した。
あの頃も、芸術が心の救いだった。
人はこんなにも美しいものも作れるのだということが、支えだった。
ヨーロッパにおいてこんなに長くキリスト教信仰が持続したのは、教会に音楽があったからではないかと思った。
公演が終わって、今日来てくれた人は家族みたいなものだからとごはん会にお誘いいただいて一緒に食べた飲んだ笑った何かを伝えあった。
aya