narikimの日記

http://rainbowduowork.hatenablog.com 日記バージョン

奇跡を起こすのは、自分が生かされてることへの感謝から

最近、うっかり我が顔を引っ掻いてしまい、ばい菌が入って顔面の半分が膨れ上がるという事態を招いてしまいました。

 

免疫力が下がっていたのだろうけれども、こんなことは半世紀近く生きてきて初めてのこと。

 

医者嫌いゆえになんとか自力で治そう、というより放っておいたものの、

 

依然膨れ上がるのを、家族が見かねて医者に行くよう脅迫地味た言動を浴びせられ、

仕方なしに通院なるも、

 

抗生剤が効くどころか、さらに悪化していき、別な病院行くも、顔に塗るものではないという最も強いステロイド剤を処方され、これも受け入れるのかと自問自答。

 

結局、何も服用せず塗らず、絶食し、水とびわ茶と、ササヘルス だけ飲み続けました。

 

あとは懇々と眠る。

 

私は、皆が驚くほど心配しなかったです。

 

どこかで、「奇跡は起きる」という思い込みが作動しているのを感じてました。

 

こういうときは、感謝の気持ちや言葉をたくさん分泌します。

 

それにより、みるみると回復していくではありませんか。

 

膿が出てどろっとした瘡蓋がこんもりしてきたときは、その醜さよりも、

 

膿さん、瘡蓋さんに、すごく感謝しました。

 

病院の得体の知れない薬じゃなくて、自分の身体のシステムがちゃんと作動してくれました。

 

すっかり傷跡もなく、何事もなかったかのような顔面。

 

改めて、奇跡は自分で起こすこと(=感謝の気づき)を学びました。

 

それは、自分というものは無くて、ただただすべてなるものの一部であり、

 

すべてなるものすべてにより、「生かされている」ことへの

 

感謝 

 

のみであることです。

 

感謝感謝感謝です。

 

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出会い

転々と移動する人生では、その場所でしか出会えなかった人々がいます。

 

そして、必ずその方の話を聞き、対話をすることで、その方が本来の目的に目覚めていくのを見ることになります。

 

それは私の楽しみであり、自然体のままです。

 

セッションするとかワークとか全くしません。

 

旅先で観光もほとんどせず、ただのんびりしていますと、そういう出会いがあります。

 

くつろいでやりたいことだけして暮らすように滞在していますが、そこでの“出会い”が満たされますと、

 

次の移動地が浮上して、移動を余儀なくされる流れが生じます。

 

どこにいても幸せです。この幸せ感が、次に向かいます。

 

久しぶりのヨーロッパです。

 

しかし、一時帰国の束の間にも、こうした特別な“出会い”がありました。

 

マスターレベルの方たちです。

 

人々が、自分の才能に、好きなことに目覚めて、その“道”を生き生きと歩む姿を見れるのは、本当に素晴らしい体験です。

 

私は、人との対話の間に“ある間”を感得する、その瞬間がくると、

 

えもいえぬ喜びを味わいます。喜びと尊敬が入り混じった感じでしょうか。

 

その瞬間こそは、

 

その方の神聖なスピリットが、“ある”顕れた瞬間だからでしょう。

 

そして、その感じと似たような体験は、

 

その土地、その土地に根を下ろしている“樹木”に出会った瞬間にあります。

 

樹木との出会いは、感謝そのものです。

 

私は移動することで、美しい地球のスピリットに出会っています。

 

 

 

生きとし生けるものすべてが幸せでありますように

川の流れのように

インド占星術でいうところの〈ラーフ期〉は、先の見えない頭のない竜に象徴されています。

 その後半期を過ごしています。次々に移動する人生を終えたいと思いながらも、まるで大海原に流れ行く川のように、留まることがありません。

 

一瞬一瞬が貴重で、一期一会のように感謝してます。

 

通り過ぎた場所場所を懐かしんでも、そこに戻ることはないでしょう。

 

それは逆流して戻ろうとしてももう戻れない場所なのです。

 

 

開き直って流れに任せますと、すべてがシンプルで楽に運ばれていきます。

 

人との出会いも、まるで用意されていたかのように、完璧です。

 

頭で考え始めると途端に波動が下がりますので、考えないようにしています。

 

考えたことで、流れに乗る以上のベストな閃きはこないことを知っています。

 

心地の良い波動に調音することを習慣にしていますと、ポジティブにフォーカスすることを楽しみます。

 

青々とした葉っぱの樹木の下を通るときは、どこか先生の前を通る生徒の気持ちになります。

 

地球上で最も進化していると言われる、樹木たち。

 

樹木の下で佇むだけで波動調整されます。

 

あるがままでいい、そう響いているよう。

 

 

 

愛と光と感謝をこめて

 

 

庭いじり

こちらニュージーランドは少しずつ紅葉してきました。

庭のオークの樹々が色づくのを楽しんでいます。

 

農薬を使わないで、芝生の手入れをしています。たくさんの雑草抜き。

これが面白いです。雨降った後には土が柔らかくなって抜きやすいのです。

 

これらの雑草は食べられるものばかり。タンポポもどきのブタナだけ食べました。

あとは抜いて堆肥に混ぜます。

 

素人で庭いじりするのは、知らないことばかりでもどかしいですが、土に触れられ時間があっという間に過ぎています。

 

微生物の働きで土が肥え、太陽の光が降り注ぎ、風が吹いて雨が大地を潤します。

 

大地は、キリストの体。

霊化した地球の大地に触れるだけで癒しは起きています。

 

素足で土に触れると、スマホやパソコン、電磁波に囲まれた波動を調整します。

 

私たちはすでに大いなる恵みをいただいています。

 

1日の始まりと終わりに、瞑想します。

 

軽く目を閉じて、ゆっくりとした呼吸に意識を向けます。

 

落ち着いてきたら、頭の上方から光が自分の体全身に降り注がれるのをイメージします。

 

頭、目、顔、首、肩、背中、と徐々に体全身くまなく光が染み渡るのを、

イメージして感じて、観ます。

 

光とともに観ることで浄化します。

 

光とともにあると、静けさに包まれるのを覚えます。

 

時折、呼吸に意識を戻します。

 

「私の願い」がすでに実現している感じがどんな感じかを、感謝とともに味わいます。

 

自分とご縁のある人々へ、ポジティブなまなざしと感謝とともに、光を送ります。

 

自分を含めた宇宙全体に、愛と光と感謝を送ります。

 

 

 

 

生きとし生けるものすべてが幸せでありますように

 

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楽しい日々ーワンダーチャイルド

ニュージーランドの自宅に久しぶりに家族が集まり、それぞれの楽しみを見出しています。それが互いに影響し合うのを見ています。

 

自宅というのは、ある意味一番安心する場所ですので、蓋をしていた“望み”が呼び覚まされることがあります。

 

思いがけなく娘の蓋が開いて出て来たのは、“ワンダーチャイルド”。

子どもの頃に、歌手になりたかった想いが一気に溢れ出て、毎日来る日も来る日も朝から晩まで歌い続けています。

 

潜在意識の蓋していたエネルギーの凄さを目の当たりにしています。

 

ワンダーチャイルドが出て来ますと、あらゆることがスルスルといきます。

クライストチャーチでJapan Day が折しも開催され出演が決まり、伴奏者がほしいと思っていると現れ、

子どもの頃に習っていたカヤグムを弾きながら歌いたいと思うと、はるかニュージーランドに韓国の琴カヤグムをちょうど手放す人がいて格安で譲り受けました。

 

彼女は、日々の瞑想、ローフード、スムージー断食、官足法の足もみ、砂浴、などなどの健康オタクで、ディトックス三昧。

 

丁寧に楽しく生きてる姿は、周囲の波動をも上げています。

 

3/4(日) 12:50〜 インドアステージでSHOKO 歌手デビューします。

 

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愛と光と感謝をこめて

 

 

絵を画くこと

今の私が夢中になっていることのひとつは、絵を画くことです。

 

私が画く絵は、私が自由に料理するやり方と同じだと思います。

つまり、何が出てくるかわかりません。一瞬一瞬波に乗って楽しんでいるだけです。

 

キャンバスをじっと見ていますと、いろんな色や奥行きが見えて来ます。

何も描かなくてもそこにあるのです。でも、誰もが見えているものではないので、私はそれを誰もが見えるように描くわけです。

 

モーツァルトが、五線譜に曲を書くことが仕事で、そうしないと人々に音楽が聴こえないからでした。すでにモーツァルトの中には音楽が溢れていました。

 

物質という目に見える世界にいることで、このように物質化する過程を楽しんでいます。誰かに認めてもらうために描くのではなく、もうそこにあることが表われ出ることを楽しんでいる感じでしょうか。

 

人との対話もかように、そこに表われ出るエネルギーをまるで絵でいう色や形を楽しんでいるかのようです。

 

創造の瞬間ほど、この物質界を楽しんでいる感覚を他に知りません。与えられた世界を享受するも然り、

自らの手から溢れ出ることが、私を取り巻く見えない存在たちとの豊かな饗宴と感得するのです。

 

つまりは、今の私の波動がキャンバスに色や形となって定着してゆくのを同調してゆくのを楽しんでいるのです。

 

その波動とは、瞬間瞬間、変わりゆくものでありながらもそこに流れている通奏低音は、生命の大いなる愛の波動。

 

ここにあることを生かしめている無限な叡智であり、無限なるエネルギーであることを感得するのです。

 

私という存在は、独りであることは、ないということ、大いなる愛によって生かされているということを。

 

私のエネルギーが充ち満ちて、絵筆とともにあるとき、それは大いなる愛の波動と一致しています。

 

そうして描かれた絵を見ると、その波動を感じ同調します。

 

R.シュタイナーが、芸術の未来は、

「絵なら、物質化した絵がエーテル界に、その色や形が浮遊する」と話していたように記憶しています。

 

私はそれを先取りするように、すでに人々は波動として感知していると思っています。

 

それは“物質の霊化”であり、

地球の物質を画家を通して、変容させる愛の行為とも思えるのです。

 

全身全霊な創造行為は、普段のその人でない何かが現れています。

無限な力と同調一致します。

舞台上の私を観た人が、普段の私と全然違うと驚きますが、誰にもそのような瞬間があります。

 

 

内なるものの開花を楽しみましょう。

 

 

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喜びの種を植える

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NZ(ニュージーランド)産のオーガニックにんにくが届きました。Heirloom Garlic.

一目見た瞬間に、美しい波動を感じます。ありがたいです。

 

今の私が夢中になっていますのは、土。

この美しい波動のガーリックのような作物が育つ土、大地のエネルギー、地球の恵み。

 

全ては、愛と光

 

半年前に、ベランダの小さなプランターで育てた野菜に愛おしさと高い波動を感じていました。プランターではなくて大地のエネルギーを直に感じながら暮らしたいと思いました。

 

その思いは一旦手放していました。その後、半年の間に大きな変化がどっときて、落ち着いたときには、ニュージーランドで大きな家の庭にある菜園の土いじりに励んでいる自分がいました。

 

日の出を毎朝拝め、温泉に毎日入れる環境も良かったけれども、高い建物や送電線のない空気と綺麗な水のあるところで家族と暮らすことを夢見ました。

 

思いがけず、そうなりました。

振り返りますと、人生であらゆる願いが実現していました。奇跡は頻繁に起きていました。

すべてがおかげさまでした。

 

“今ここ”この瞬間に感謝しています。

それが、「喜びの種」を育てる土壌だと思います。

 

私たち一人ひとりが、創造の源発露であることを知りました。

 

生きとし生けるものすべてが生きています

 

傷ついているところには、感謝がありませんでした。愛から遠のいていました。

人生の終盤にきて、そのことがやっとわかりました。

 

 

 

目に見える物質界は、目に見えない存在たちの愛が満ち満ちていますおかげで生成しています。

 

生きていることの奇跡を十分に味わい楽しみ感謝します。

 

土いじりしながら、もっとも小さな微生物の大いなる力に感動しています。

健康な身体には、良質なバクテリアが生きています。

 

そして、オイリュトミーの笠井先生から教えていただいたことが、実感を持って感じられています。

 

小さければ小さいほど力があります。

空気、光、水。

 

原子の力、目に見えない思考の力、言葉の力、音楽の力、

光の力、意識の力、

そして愛の力。

 

神がお与えくださいました大地の恵みを感じ、

「第二の自然を創造する」(笠井先生)オイリュトミーの恵みに

 

改めて呼び覚まされています。

 

すべてが完璧でした。

 

感謝します。

感謝します。

感謝します。

 

 

生きとし生けるものすべてが幸せでありますように

 

 

 

 

 

 

家族の肖像

離れ離れで暮らしていた家族がたまに集まりますと、そこに流れるエネルギーが瞬時に変わるのを覚えます。

 

反発し合う関係、癒着し合う関係、依存し合う関係、と様々な家族のありようがあるようですが、

 

家族の肖像はあたかも古びた写真の向こうを覗き見るように、次元を超えた味わいの只中に生きているようです。

 

この貴重な瞬間を大切に愛と感謝で迎え入れます。